ボーカロイド押韻研究所

広義ボーカロイド楽曲における押韻の紹介。

1時限目 『裏表ラバーズ』 ―衝動と焦燥、愛のない世界へ―

こんにちは、夜川奏です。

 

ボーカロイド押韻研究所、1時限目はwowakaの『裏表ラバーズ』を取り上げたいと思います。

 

このブログを始めるにあたって、「これは絶対に取り上げよう」と決めていた楽曲がいくつかあったのですが、その一つが『裏表ラバーズ』でした。

押韻が特徴的であるのもさることながら、この曲自体(というよりはこのアーティスト自体)がボーカロイド界に与えた影響がとてつもなく大きいのです。彼なしにボカロカルチャーは語れない、と言っても過言ではありません。今回は、「押韻」に加えて、ボカロカルチャーにおけるwowaka楽曲の重要性という観点からも、お話していきたいと思います。

 

曲紹介

『裏表ラバーズ』は、wowakaの6作目として2009年に投稿されました。作詞作曲および編曲はすべてwowakaが行い、歌唱は初音ミクが担当しています。投稿の翌年には早くも100万回再生を達成し、今年(2023年)には1000万回再生を達成しました。

 

www.nicovideo.jp

www.youtube.com

歌詞リンク↓

https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/6361.html

 

まさにwowakaの代表曲となったこの曲ですが、何より特徴的なのは、早口でまくし立てていくところでしょうか。よくボカロ曲の特徴として「テンポが速く」「言葉数が多い」ことが挙げられますが、『裏表ラバーズ』はまさにこの「ボカロっぽさ」を体現した曲ということになります。

 

分析

それでは、この曲における押韻について見ていきましょう。

なお、同じ韻を踏んでいる箇所には、同じ色でハイライトをつけています。(以降も同じ)

 

良いこと尽くめ の夢から覚めた私の脳内環境は,
ラブという得体の知れないものに侵されてしまいまして,それからは。
どうしようもなく2つに裂けた心内環境
制御するだけのキャパシティなどが存在しているはずもないので
曖昧大概のイノセントな感情論をぶちまけた言の葉の中
どう こう 在地を確認する目玉を欲しがっている,生。

 

まず「脳内環境」「心内環境」という対照的な2つのワードが登場します。いわゆる「脳=理性」と「心=感情」の対立が、「内環境」の部分を揃えることによって強調されています。

ただ歌詞を見ると、「脳=理性」は「ラブ」によって機能しておらず、「心=感情」は何か相反する感情を抱えているようです。そのアンビバレンスを「制御するキャパシティ」がないことは、「早口でまくし立てる」という曲調からも感じることができるでしょう。

「大概」「曖昧」そして「どうにか」「こうにか」という押韻は、どこか癖になるリズム感の良さを演出しています。

 

どう尽くめ の毎日 そうああ こうサヨナラベイベー
現実現実一体なこの心
どこかに良いことないかな,なんて裏返しの自分に問うよ。
自問自,自問他,他問自連れ回し,ああああ

 

続くパートでは明らかに押韻が増えました。まずは直前の「ouia」の韻から導かれるように、「ouie」の韻が繰り返されます。そして一音省いた「oui」で3回踏むと、さらに一音省いて「ou」での押韻を繰り返していきます。

踏む母音の数が減っていく様子は、早い曲調と相まってどこか焦っているようです。

 

個々のライムで言えば、「現実直視」と「現実逃避」というワードは対照的な意味を持ち、それらが「表裏一体」だというアンビバレンス性が歌われているわけですが、これら全てで韻を踏んでいるのは非常に巧いですね。

 

ただ本能的に触れちゃっも言いたいことっ無い
痛い,触っ,喘いにも昇れる気になっ
どうにも こうにも 二進も 三進もっちもっちも
今すぐあちらへ飛び込んでいけ。

 

サビ前は一気に脚韻を踏み倒していきます。細かい韻をやはりリズミカルにまくし立てていくところは、曲全体を通して一貫している焦燥感を演出しています。

 

そして最後の「今すぐあちらへ飛び込んでいけ。」では対照的に全く押韻をしません。そのため他よりも強調されて聞こえ、リスナーの耳に残ることになります。

 

もーラブラブになっちゃってー 隔膜突っ張っちゃってー
烈な味にぶっ飛んでー 身大の裏・
迫的に縛っちゃってー 膜の上に貼っちゃってー
もーラブラブでいっちゃってよ! 会い たい たい ない無い

 

サビは一貫して「o(u)」音で始まり、「て」音で終わるフレーズが繰り返されます。

初め「ouia」で始まった韻は、サビに至る頃には最小の「o」にまで縮み、「韻数の減少による焦燥感」という効果を最大限発揮していますね。

また語尾を「て」で揃えている部分は、助詞を揃えただけと思わせて表題の「裏表」を導くという、テクニカルさを備えています。

 

そしてサビの最後には、先ほど登場した「ai」音を5回繰り返して締めています。「会いたい」といいつつ「無い」で終わるのは、会いたいけど会いたくない、まさに相反する「裏表」の感情を示唆していると言えます。

 

嫌なこと尽くめ の夢から覚めた私の脳内環境が,
ラブという得体の知れないものに侵されてしまいまして,それからは。
どうしようもなく2つに裂けた心内環境
制御するためのリミッターなどを掛けるというわけにもいかないので
大概は 曖昧なイノセントな大災害を振りまいたエゴを孕ませ
どう こう 在地を確認した言葉を手に掴んだようだ。

 

2番に移りまして、主な韻は1番と変わりませんが、1番では「曖昧」「大概」で踏んでいたところ、2番では「大概は」「曖昧な」「大災害」と1音増えた「aiaia」で3回韻を踏んでいます。

最後の「手に掴んだようだ。」のリズムも1番と違い、形式的には1番をアレンジして飽きさせない工夫をしていると言えるでしょう。また歌詞の内容的にも、混乱した脳内が少しずつ秩序を得て、「現在地点を確認した言葉」が見つかった、理性が追いついてきたことが1番と異なります。

 

どう尽くめ の毎日 そうああ こうサヨナラベイベー
現実現実一体なこの心
どこかに良いことないかな,なんて裏返しの自分に問うよ。
自問自,自問他,他問自連れ回し,ああああ

ただ本能的に触れちゃっも言いたいことっ無い
痛い,触っ,喘いにも昇れる気になっ
どうにも こうにも 二進も 三進もっちもっちも
今すぐあちらへ飛び込め。

 

こちらは一番とほぼ変わっていません。

唯一違うのは、サビ直前の「今すぐあちらへ飛び込め」という部分で、1番では「飛び込んでいけー」とそのままの勢いでサビに突入したのに対し、2番では「飛・び・込・め」とスタッカートになり、一息置いてからサビに向かいます。

先ほど指摘したように、この部分は全く押韻をしないため、リスナーの耳によく残ります。2番でここを迎えるときにも、1番の印象が残っているために、リスナーは1番との違いにより気付きやすい、ということになります。

 

目的に嫌っちゃってー 今日いく予定作っちゃってー
どうしてもって言わせちゃってー 身大の裏を待
発的に誘っちゃってー 動的に歌っちゃってー
もーラブラブでいっちゃってよ!  無い

 

やはり2番サビも、頭は「o(u)」、末尾は「て」で韻を踏み、最後には「ai」音での押韻を4回繰り返します。1番サビと違うのは「ai」韻の回数ですが、これはもう一度サビのメロディを繰り返すためでしょう。

 

内容を見ると、1番と同様にどこか肉体的な欲求を思わせるようなフレーズが並びます。そして最後に「大体愛無い」と言い切るわけですが、これは肉体的な関係に得てして「愛」が無いことを言い表しているように読み取れます。

また、ここは1番では「会いたいたいない、無い」でした。初めのうちは「愛」というもので思考が埋め尽くされ、肉体的な関係も、愛ゆえのものであると思っていたところ、なんとなく拒絶したがる理性的な自分がいて、その裏表ゆえ「会いたい」のか「会いたくない」のか、という葛藤がある。

しかしもっと時間が経って思考が明晰になる、理性が働くようになってくると、肉体的な関係を覆っていた「愛」が剥がれ落ちていく。人間の動物的な部分に対して、肉体的には抗えないが、理性的にはそれが空しいものであることに気が付いてしまっている。

そんな状態を歌っているようにも思えます。そして最後のサビ。

 

もーラブラブになっちゃってー 隔膜突っ張っちゃってー
烈な味にぶっ飛んでー 身大の裏・
迫的に縛っちゃってー 膜の上に貼っちゃってー
もーラブラブでいっちゃってよ! あい あい あい あいない

 

1番サビの繰り返しですが、最後のフレーズが変わっています。「あいあいあいあい、ない!」と、先ほどの「大体愛無い」からさらに強めて、「愛」が無いことを断言しています。

やはり肉体的な欲求に抗うことはしません。「愛愛愛愛、無い」ではなく、ひらがなの表記になっていることは、理性が弱っているような印象を受けます。

しかしその弱った理性の裡では、最早それが「愛」ゆえのものではないということを、そして、そもそも「愛」というものが存在すらしないのではないかということをも、悟っている。そんなフレーズに感じられないでしょうか。

 

このように『裏表ラバーズ』は、絶対的存在とされている「愛」が、実は「無い」ものであるということを鋭く指摘した楽曲であると、私は考えています。

 

まとめ

『裏表ラバーズ』における韻で特筆すべきは、以下の3つでした。

 

①踏む母音の数がだんだん減っていく

Aメロ、Bメロ、サビと進むにつれて、「ouie」→「oui」→「ou」と、揃える母音の数が減っていました。

ここには、丁寧に韻を踏む余裕のなさ、焦燥感のようなものを感じ取ることができます。

 

②細かい韻をリズミカルにたくさん踏み倒す

サビ前では、語尾を「て」や「iも」の音に揃え、細かくたくさん韻を踏んでいました。

細かい押韻によってリズムが生まれ、聞き心地がよくなることは、押韻の最も基本的な効果でもあります。

 

③「ai」音の韻が、「愛」が「無い」ことを導く

「曖昧」「大概」なども含めれば、サビ終わりに限らず「ai」音の韻は曲の各所に見られます。そもそも、「ai」というのは非常に踏みやすい韻ですから、たくさん押韻しようと思えば、使い勝手のいいものになっています。

しかし、「愛」と「無い」を踏むこと、それも、たくさんある押韻の一部としてではなく、サビという最も印象に残る箇所の最後の部分において踏むことは、ラブソングへの大胆なアンチテーゼといえるでしょう。

鮎川ぱて氏の『ボーカロイド音楽論』(文藝春秋、2022)の言葉を借りれば、『裏表ラバーズ』は、まさに「アンチ・ラブソング」の筆頭格であるわけです。

 

おわりに

wowakaは、「ボカロっぽさ」を創出したボカロPとして特筆すべきアーティストです。「テンポが速く、言葉数が多い」ことはもちろん、本稿で紹介したような「押韻の多さ」もまた、ボカロ界では彼によってメジャーになったのではないかと考えています。

 

そしてまた、「アンチ・ラブソング」を定立した点でも、その重要性は計り知れません。

 

2019年、wowakaはこの世を去ってしまいましたが、彼の曲は、彼という存在は、ボカロシーンに永遠に残り続けるでしょう。

 

巧みな「韻」の使い手であり、「アンチ・ラブソング」の旗手であり、そして何より、偉大な一人のアーティストであったwowakaに、最大の敬意を表して。

 

どうか安らかに。

0時限目 シラバス

はじめまして。夜川奏といいます。

 

本日より、「ボーカロイド押韻研究所」と題して、広義ボーカロイド楽曲における「押韻」という現象について分析・考察していこうと思います。

 

と言っても、「押韻」に関する体系だった説明ができるわけではないので、

「どんな言葉で韻を踏んでいるのか」「その韻にはどんな効果があるのか」

ということをメインに、読者の皆さんに色々な楽曲を紹介できればと思っています。

 

今回はその導入として、J-POPにおける「押韻」が一般に受け入れられるようになった歴史を概観し、「なぜボーカロイド楽曲に着目するのか」を説明しようと思います。

 

【80年代より 押韻の伏線】

現代の邦楽において、「押韻」すなわち韻を踏むということは、広く一般的に受け入れられている行為です。

しかしながら、邦楽における「押韻」が見られるようになったのはせいぜい1980年頃、比較的最近の現象であると言えましょう。

 

というのも日本語の押韻は、ヨーロッパ圏の詩に見られるそれが「美しい」と形容されるのとは異なって、そこはかとなく「ダサい」という印象を、長く免れ得なかったのです。律儀に韻を踏めば踏むほど、よくできた「ダジャレ」であるという印象が(それこそ「布団がふっとんだ」のような可笑しさが)日本語話者の脳には長くこびりついていました。

 

そうした土壌の上で、独特の押韻で多くの聴衆に鮮烈な印象を与えたであろう楽曲が、1978年にリリースされた 『飛んでイスタンブール』/庄野真代 です。

 

おいでイスタンブール うらまないのがルール

 

飛んでイスタンブール 光る砂漠でロール

 

サビで繰り返される特徴的な「ル」の脚韻は、瞬く間に世間の耳目を集め、今では彼女の代表曲となりました。邦楽、それもJ-POPというジャンルにおいて明確に押韻がなされるようになったのは、この時期からであると考えています。

 

その後も 『渚にまつわるエトセトラ』/PUFFY の「カニ食べ行こう はにかんで行こう」など、特徴的な押韻をもつヒット曲がいくつも登場し、J-POPにおいて積極的に「押韻」を取り入れる素地が育まれていきました。

 

邦楽における押韻を牽引したのは、実際には「日本語ラップ」のムーヴメントによるところが大きいのですが、その詳細は別の識者の方に譲りたいと思います。

 

野田洋次郎と「過剰」な韻】

「素地がある」といえど、J-POPにおける押韻はあくまでリズム感を生み出すための補助的なツールに過ぎませんでした。この認識は現在も一般的なものでしょう。たいていJ-POPの歌詞においては意味内容を優先しますから、「韻を踏んでいる」ことに重きを置くような作詞の仕方は、有り体に言えばラップ的な手法です。

 

無論ケツメイシのように、ラップをメインにしながら広く大衆に受け入れられたアーティストは存在しましたし、小沢健二桜井和寿など、J-POPの中に積極的に韻を取り入れていったアーティストも存在しています。しかし、「韻を踏んでいる」ことに重きを置いた――ある意味で韻が“過剰”と言えるようなJ-POPが登場するには、2000年代後半を待たなければなりません。

 

2006年にリリースされたRADWIMPSの『いいんですか?』は、ラップのような韻の連続が新鮮な一曲です。

 

大好物はね 鳥の唐揚げ 更に言えばうちのおかんが作る鳥のアンかけ

RADWIMPS - いいんですか? [Official Music Video] - YouTube

 

このような押韻を含む歌詞がサビ前まで続きます。平坦なリズムで語られていく様はラップのようですが、ほとんどの韻が「~はね」「~って」「~わけで」といった助詞で踏まれており、歌詞にしたい内容を考えた上で語尾を揃えた、と見るのが適切でしょう。サビ前までずっと踏んでいるという点で韻は過剰ですが、韻を優先して歌詞を考えたとは思えません。そのような、言わば韻に「支配されている」と言える楽曲が出たのは、2009年のことです。

 

同じくRADWIMPSが2009年にリリースした『おしゃかしゃま』は、人類の身勝手さとそれを乗り越えるための道を示唆しているような楽曲ですが、とにかく促音を含む韻を踏みまくっています。

 

偶然の一致か 運命の合致

はたまた 自分勝手スケッチ

あっちこっちそっちってどっち?

一体どうなってるんダ・ヴィンチ

RADWIMPS - おしゃかしゃま [Official Music Video] - YouTube

 

これは1番のサビ前の部分ですが、「っち」での脚韻が7回、「ち」も含めれば8回も踏まれています。他の部分でも「って」や「て」、「aい」での脚韻がこれでもかと繰り返され、全体では韻を踏まないパートの方が少ないほど、まさに韻が“過剰”に踏まれているのです。

 

また引用箇所を見ると、「スケッチ」や「ダ・ヴィンチ」という言葉が選ばれています。これらは文脈では示唆するものがあるにしろ、伝えたい内容を考えれば意味的な関連性がない単語ですので、恐らく韻を優先して歌詞を書いたのだと考えることができます。その点でこの楽曲では、韻が「支配的」と言えるでしょう。

 

このように韻が「過剰」で「支配的」な楽曲は、ある一人のアーティストの登場でさらに一般的になりました。今や国民的なシンガーソングライターとなった、米津玄師です。

 

押韻のアーティスト 米津玄師】

2016年に発売された『LOSER』は、Aメロでの小気味の良い押韻と、2番のAメロ-Bメロ間に挿入されたラップ調のパートが特徴的な楽曲です。

 

いつもどおりの通り独り こんな日々もはや懲り懲り

もうどこにも行けやしないのに 夢見ておやすみ

いつでも僕らはこんな風に ぼんくらな夜に飽き飽き

また踊り踊り出す明日に 出会うためにさようなら

踊る阿呆に見る阿呆 我らそれを端から笑う阿呆

デカい自意識抱え込んではもう 磨耗 すり減って残る酸っぱい葡萄

米津玄師 - LOSER , Kenshi Yonezu - YouTube

 

1番のAメロとラップパートの冒頭を引用していますが、脚韻や頭韻の数がとにかく多いので、まず韻は”過剰”と言って良いでしょう。また、フレーズの末尾に着目すると、体言止めが多く使用されていることに気付きます。表現したい内容を、文章による語りではなく単語の列挙によって表すのは、「韻を優先して歌詞を書いた」からに他なりません。

 

しかしてこの楽曲は、韻が「過剰」で「支配的」と言えるわけですが、YouTube上の再生回数は3億回以上を記録しています(2023年10月時点)。米津玄師というアーティストは、過剰で支配的な韻を大衆が受け止める決め手となった存在なのです。

 

そして、ここでようやく「ボーカロイド」に触れることになります。

 

【なぜ「ボカロ」に着目するのか】

ご存知のように米津玄師は、その名でメジャーデビューを飾る前、ニコニコ動画において「ハチ」という名のボカロPとして活躍していました。2023年10月時点で、代表曲『マトリョシカ』のほか、『ドーナツホール』『砂の惑星』の3曲が神話入り(ニコニコ動画での1000万回再生)という快挙を達成しています。

 

押韻のアーティスト」としての米津玄師を生んだ土壌は、このニコニコ動画に、そして「ボーカロイド」というカルチャーにあると考えてよいでしょう。テンポが速かったり、早口でまくし立てたりと、先駆的な表現の楽曲が数多投稿されてきたボカロカルチャーですが、特徴的な「押韻」を持った楽曲もまた、様々投稿されているのです。

 

そして米津玄師に留まらず、現在ではボカロカルチャー出身の様々なアーティストがJ-POPの世界で活躍しています。例えば ヨルシカ は n-buna が牽引し、 ずっと真夜中でいいのに。 では ぬゆり や 100回嘔吐 が編曲を担当、そして歌手の Ado には、 syudou や Neru など名だたるボカロPたちが楽曲を提供している、というように、J-POPにおけるボカロカルチャーの影響力は、今までになく大きいものとなりました。

 

だからこそ、現代のJ-POPにあふれた「押韻」という現象を読み解くカギが、このボカロカルチャーにあると思うのです。日々様々な楽曲が投稿され、常にその巨大化をやめないボカロカルチャーが、アンダーグラウンドで抱えてきた「押韻」という名のレトリカルパワー。ジャンルを問わず何でも食らい尽くしてきた怪物が隠し持っている秘密兵器としてのそれを解析することは、現代のJ-POPの理解に通ずるはずです。

 

 

そういうわけで、本ブログでは「広義ボーカロイド」楽曲に絞って、豊かな押韻の具体とその効果について分析していこうと思っています。「広義」と言っているのは、ヤマハの提供する"VOCALOID"を用いた楽曲に限らず、"UTAU"や"CeVIO"といった合成音声を用いた楽曲全般をカバーするためで、このほか「番外編」として、広義ボカロ曲以外の楽曲も扱う予定です。

 

記念すべき1時限目となる次回は、wowakaの『裏表ラバーズ』を扱う予定です。

週1ペースでの投稿を予定していますので、気長にお待ちください。

 

それでは。