ボーカロイド押韻研究所

広義ボーカロイド楽曲における押韻の紹介。

0時限目 シラバス

はじめまして。夜川奏といいます。

 

本日より、「ボーカロイド押韻研究所」と題して、広義ボーカロイド楽曲における「押韻」という現象について分析・考察していこうと思います。

 

と言っても、「押韻」に関する体系だった説明ができるわけではないので、

「どんな言葉で韻を踏んでいるのか」「その韻にはどんな効果があるのか」

ということをメインに、読者の皆さんに色々な楽曲を紹介できればと思っています。

 

今回はその導入として、J-POPにおける「押韻」が一般に受け入れられるようになった歴史を概観し、「なぜボーカロイド楽曲に着目するのか」を説明しようと思います。

 

【80年代より 押韻の伏線】

現代の邦楽において、「押韻」すなわち韻を踏むということは、広く一般的に受け入れられている行為です。

しかしながら、邦楽における「押韻」が見られるようになったのはせいぜい1980年頃、比較的最近の現象であると言えましょう。

 

というのも日本語の押韻は、ヨーロッパ圏の詩に見られるそれが「美しい」と形容されるのとは異なって、そこはかとなく「ダサい」という印象を、長く免れ得なかったのです。律儀に韻を踏めば踏むほど、よくできた「ダジャレ」であるという印象が(それこそ「布団がふっとんだ」のような可笑しさが)日本語話者の脳には長くこびりついていました。

 

そうした土壌の上で、独特の押韻で多くの聴衆に鮮烈な印象を与えたであろう楽曲が、1978年にリリースされた 『飛んでイスタンブール』/庄野真代 です。

 

おいでイスタンブール うらまないのがルール

 

飛んでイスタンブール 光る砂漠でロール

 

サビで繰り返される特徴的な「ル」の脚韻は、瞬く間に世間の耳目を集め、今では彼女の代表曲となりました。邦楽、それもJ-POPというジャンルにおいて明確に押韻がなされるようになったのは、この時期からであると考えています。

 

その後も 『渚にまつわるエトセトラ』/PUFFY の「カニ食べ行こう はにかんで行こう」など、特徴的な押韻をもつヒット曲がいくつも登場し、J-POPにおいて積極的に「押韻」を取り入れる素地が育まれていきました。

 

邦楽における押韻を牽引したのは、実際には「日本語ラップ」のムーヴメントによるところが大きいのですが、その詳細は別の識者の方に譲りたいと思います。

 

野田洋次郎と「過剰」な韻】

「素地がある」といえど、J-POPにおける押韻はあくまでリズム感を生み出すための補助的なツールに過ぎませんでした。この認識は現在も一般的なものでしょう。たいていJ-POPの歌詞においては意味内容を優先しますから、「韻を踏んでいる」ことに重きを置くような作詞の仕方は、有り体に言えばラップ的な手法です。

 

無論ケツメイシのように、ラップをメインにしながら広く大衆に受け入れられたアーティストは存在しましたし、小沢健二桜井和寿など、J-POPの中に積極的に韻を取り入れていったアーティストも存在しています。しかし、「韻を踏んでいる」ことに重きを置いた――ある意味で韻が“過剰”と言えるようなJ-POPが登場するには、2000年代後半を待たなければなりません。

 

2006年にリリースされたRADWIMPSの『いいんですか?』は、ラップのような韻の連続が新鮮な一曲です。

 

大好物はね 鳥の唐揚げ 更に言えばうちのおかんが作る鳥のアンかけ

RADWIMPS - いいんですか? [Official Music Video] - YouTube

 

このような押韻を含む歌詞がサビ前まで続きます。平坦なリズムで語られていく様はラップのようですが、ほとんどの韻が「~はね」「~って」「~わけで」といった助詞で踏まれており、歌詞にしたい内容を考えた上で語尾を揃えた、と見るのが適切でしょう。サビ前までずっと踏んでいるという点で韻は過剰ですが、韻を優先して歌詞を考えたとは思えません。そのような、言わば韻に「支配されている」と言える楽曲が出たのは、2009年のことです。

 

同じくRADWIMPSが2009年にリリースした『おしゃかしゃま』は、人類の身勝手さとそれを乗り越えるための道を示唆しているような楽曲ですが、とにかく促音を含む韻を踏みまくっています。

 

偶然の一致か 運命の合致

はたまた 自分勝手スケッチ

あっちこっちそっちってどっち?

一体どうなってるんダ・ヴィンチ

RADWIMPS - おしゃかしゃま [Official Music Video] - YouTube

 

これは1番のサビ前の部分ですが、「っち」での脚韻が7回、「ち」も含めれば8回も踏まれています。他の部分でも「って」や「て」、「aい」での脚韻がこれでもかと繰り返され、全体では韻を踏まないパートの方が少ないほど、まさに韻が“過剰”に踏まれているのです。

 

また引用箇所を見ると、「スケッチ」や「ダ・ヴィンチ」という言葉が選ばれています。これらは文脈では示唆するものがあるにしろ、伝えたい内容を考えれば意味的な関連性がない単語ですので、恐らく韻を優先して歌詞を書いたのだと考えることができます。その点でこの楽曲では、韻が「支配的」と言えるでしょう。

 

このように韻が「過剰」で「支配的」な楽曲は、ある一人のアーティストの登場でさらに一般的になりました。今や国民的なシンガーソングライターとなった、米津玄師です。

 

押韻のアーティスト 米津玄師】

2016年に発売された『LOSER』は、Aメロでの小気味の良い押韻と、2番のAメロ-Bメロ間に挿入されたラップ調のパートが特徴的な楽曲です。

 

いつもどおりの通り独り こんな日々もはや懲り懲り

もうどこにも行けやしないのに 夢見ておやすみ

いつでも僕らはこんな風に ぼんくらな夜に飽き飽き

また踊り踊り出す明日に 出会うためにさようなら

踊る阿呆に見る阿呆 我らそれを端から笑う阿呆

デカい自意識抱え込んではもう 磨耗 すり減って残る酸っぱい葡萄

米津玄師 - LOSER , Kenshi Yonezu - YouTube

 

1番のAメロとラップパートの冒頭を引用していますが、脚韻や頭韻の数がとにかく多いので、まず韻は”過剰”と言って良いでしょう。また、フレーズの末尾に着目すると、体言止めが多く使用されていることに気付きます。表現したい内容を、文章による語りではなく単語の列挙によって表すのは、「韻を優先して歌詞を書いた」からに他なりません。

 

しかしてこの楽曲は、韻が「過剰」で「支配的」と言えるわけですが、YouTube上の再生回数は3億回以上を記録しています(2023年10月時点)。米津玄師というアーティストは、過剰で支配的な韻を大衆が受け止める決め手となった存在なのです。

 

そして、ここでようやく「ボーカロイド」に触れることになります。

 

【なぜ「ボカロ」に着目するのか】

ご存知のように米津玄師は、その名でメジャーデビューを飾る前、ニコニコ動画において「ハチ」という名のボカロPとして活躍していました。2023年10月時点で、代表曲『マトリョシカ』のほか、『ドーナツホール』『砂の惑星』の3曲が神話入り(ニコニコ動画での1000万回再生)という快挙を達成しています。

 

押韻のアーティスト」としての米津玄師を生んだ土壌は、このニコニコ動画に、そして「ボーカロイド」というカルチャーにあると考えてよいでしょう。テンポが速かったり、早口でまくし立てたりと、先駆的な表現の楽曲が数多投稿されてきたボカロカルチャーですが、特徴的な「押韻」を持った楽曲もまた、様々投稿されているのです。

 

そして米津玄師に留まらず、現在ではボカロカルチャー出身の様々なアーティストがJ-POPの世界で活躍しています。例えば ヨルシカ は n-buna が牽引し、 ずっと真夜中でいいのに。 では ぬゆり や 100回嘔吐 が編曲を担当、そして歌手の Ado には、 syudou や Neru など名だたるボカロPたちが楽曲を提供している、というように、J-POPにおけるボカロカルチャーの影響力は、今までになく大きいものとなりました。

 

だからこそ、現代のJ-POPにあふれた「押韻」という現象を読み解くカギが、このボカロカルチャーにあると思うのです。日々様々な楽曲が投稿され、常にその巨大化をやめないボカロカルチャーが、アンダーグラウンドで抱えてきた「押韻」という名のレトリカルパワー。ジャンルを問わず何でも食らい尽くしてきた怪物が隠し持っている秘密兵器としてのそれを解析することは、現代のJ-POPの理解に通ずるはずです。

 

 

そういうわけで、本ブログでは「広義ボーカロイド」楽曲に絞って、豊かな押韻の具体とその効果について分析していこうと思っています。「広義」と言っているのは、ヤマハの提供する"VOCALOID"を用いた楽曲に限らず、"UTAU"や"CeVIO"といった合成音声を用いた楽曲全般をカバーするためで、このほか「番外編」として、広義ボカロ曲以外の楽曲も扱う予定です。

 

記念すべき1時限目となる次回は、wowakaの『裏表ラバーズ』を扱う予定です。

週1ペースでの投稿を予定していますので、気長にお待ちください。

 

それでは。